大島紬の高い技術力を世界へ!色鮮やかなファッション性で“鹿児島旋風”を

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重田茂和(しげた・しげかず)/本場大島紬伝統工芸士

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鹿児島市下福元町に工房を構え、大島紬を手掛けている伝統工芸士。大島紬を守りたいという強い思いから2011年2月に株式会社「ランコントル」を設立し時代やニーズに合った大島紬製品づくりを続けている。

ホームページ
http://www.rencontre.jp/

【経歴】
1980年(昭和55) 有限会社重田織物入社
1998年(平成10) 大島紬秀円設立
2003年(平成15) 本場大島紬伝統工芸士に認定される
2009年(平成21) 鹿児島県絹織物工業組合専務理事に就任
2011年(平成23) 株式会社ランコントル設立
2011年(平成23) 本場大島紬鹿児島地区伝統工芸士会会長就任

【受賞歴】
2005年(平成17) 第8回日本伝統工芸士会作品展 入賞
2007年(平成19) 第10回日本伝統工芸士会作品展 入賞


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皆さま大島紬と聞いて、何をイメージされますか。

きっと着物を頭に思い浮かべた方が多いのではないでしょうか。1960年代(昭和40年代)、大島紬は年間90万反を生産しており、バブルの時代でした。当時は高い技術力をもって織られた大島紬の着物を持っていること自体が、一種のステータスのようになったこともありました。

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しかし時代は流れ、着物の需要は減る一方です。これからの時代は、着物だけを作っていては産業も潤いません。新しい分野を開拓し、作り手自身が独自の色で個性を出していかないと、大島紬そのものが消滅してしまいます。

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大島紬を手掛ける作り手は今、さまざまな商品を開発し、それぞれの職人が面白いことをやっていこうという流れになっています。その中で、私は現代でも日常使いできるストールに焦点を当てて、商品開発をしています。

ですが、新しいことにチャレンジしていく中でも、昔ながらの伝統技法を継承していくことを忘れてはいけません。新しいものばかりを追求して、土台になっている大島紬をおろそかにしては本末転倒です。あくまで”大島紬のストール”ですから。

今後は海外市場も視野に入れて、新しい大島紬をアピールしていくと同時に、伝統を絶やさないためにも、大島紬の技法を継承する後継者の育成にも尽力していきたい。

 

 

俳優の卵から職人へと方向転換 父が他界し苦難が続く

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1962年(昭和37年)、私が2歳のときに故郷の奄美大島から、鹿児島市に引っ越しました。父親は大島紬の「締め」と呼ばれる工程を専門とする職人(大島紬は30以上の工程があり、分業制が基本)で、ものづくりをする父の姿を見て育ちました。しかし、私自身は将来は大島紬の職人になろうという気持ちは持っていませんでしたし、父親から家業を継いでほしいとも言われませんでした。

1978年(昭和53年)、18歳になると俳優になることを夢見て、上京しました。東京では演技の勉強をしたり、劇団で公演をしたりと、それなりに舞台役者として活躍していました。余談ですが、私が所属していた劇団には、現在もテレビで活躍する伊武雅刀(いぶまさとう)さんや、石井めぐみさんも所属していたんですよ。

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1980年(昭和55年)、父親が病を患い、満足に仕事ができる状況ではなくなりました。20歳になった私は、病気がちな父親の仕事を助けたいという思いで、俳優の夢をあきらめ、実家に戻り家業の「重田織物」で働くことにしました。今まで家の手伝い程度はしてきましたが、仕事として大島紬と向き合ったことはなく、全くの素人同然です。それでも、必死になって父親から教えてもらった技術を習得していきました。

そのようにして始まった大島紬職人としての生活ですが、仕事を覚える日々が続く最中、不幸が起こりました。私が22歳のとき、父親が他界したのです。それをきっかけに、別企業に勤めていた兄も実家に帰ってきて、兄が社長を務めることで父親の会社を引き継ぐことになりました。

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父はいなくなってしまいましたが、別会社の先輩職人に教えをいただいたり、自分なりに創意工夫を凝らしたりすることで、大島紬の仕事をなんとか覚えていきました。

ですが、そのころにはとうの昔に大島紬の需要のピークは終わっており、注文は減る一方。1998年(平成10年)には糸問屋が倒産し、連鎖倒産という形で重田織物を含む6社が倒産してしまいました。

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苦難の連続ではありましたが、それでも大島紬を作っていきたいという思いは私の中にあり、重田織物が倒産した年に、大島紬秀円(おおしまつむぎ しゅうえん)として個人事業をスタートさせました。

 

 

難病を抱えるも多くの人に受け入れられる大島紬を模索

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実は私は24歳のころ、皮膚の再生するサイクルが早くなる病気にかかってしまいました。尋常性乾癬(じんじょうせいかんせん)という原因不明の病で、一生治ることはありません。病気を抱えながらも仕事を続けていたのですが、32歳のころには症状が一層悪くなり、リウマチのような症状も現れてきました。

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病気の影響で今でも手先が曲がっているのですが、それでも大島紬という仕事から離れたくはありません。当時、私は下請けの仕事をしており、生活様式の変化と共に今後は下請けにまわってくる仕事の量も減っていくのではと思い、何か新しい商品を自分たちで開発できないかと考えていました。

昔は着物でもある柄が売れると分かれば、大島紬の職人全員が似たようなものを作っていましたが、今では機屋(はたや)が少なくなってきたこともあり、作る品もそれぞれの個性が出るようになました。

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そこで私はファッション性に注目することにしました。大島紬は世界に誇れる技術力がありますが、ファッションという面を追求した製品は、今まであまり作られてきませんでした。
だから、自分が今まで培ってきた技術を生かすことができて、生活にも密着して使用できるストールがいいのではと思い、ストールを中心とした商品開発を始めるようになりました。それに、ストールであれば、糸を染めるところから織りまで、自分一人で仕上げることができます。

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さらに、そのストールを織る際に使用する糸には、さまざまな色を使ったら面白いのではと思い、試行錯誤を重ねながら形にしていくと、色鮮やかなストールが誕生しました。大島紬というと「渋い」というイメージを持たれている方が多いようですが、この色鮮やかなストールを百貨店に売り込みに行くと、担当の方も思っていた大島紬のイメージとあまりに違うのか、びっくりされることが多いです。

実際に販売してみても、着物だと高額になってしまいますが、ストールであればお手頃な価格で大島紬を感じられると、ご好評をいただいております。

 

 

コラボ企画から大島紬をアピール 海外市場も視野に

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大島紬のストールをきっかけに、さまざまなコラボレーション企画をさせていただくことがあります。

以前、縁あって九州大学創立100周年記念のストールを、300本製作したことがあります。柄は2パターン用意して、大学内で販売を開始したのですが、OBの方や学生の家族の方を中心に購入いただき、なかなかの反響がありました。

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また、山陽新幹線と九州新幹線で運行している、新幹線さくらの記念行事の一環で、オリジナルストールを作成したこともあります。そのストールは新幹線の中の車内販売で購入できるものだったのですが、1本1万円以上するストールです。売れ行きはいまいちな結果になるかと思っていましたが、嬉しいことに1か月足らずで完売しました。

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そして、東京の清泉女子大学でも記念ストールを手掛けました。最初は学長のもとに大島紬のストールという話が上がったところ、即却下だったようですが、実物のストールをお見せすると、学長も気に入っていただき、記念ストールを作らさせていただく運びとなりました。学長も最初、大島紬は古臭いというイメージを持たれていたようですが、実物の色鮮やかなストールを見て、驚いていたようです。

他にも鹿児島の親善大使が身につけるストールを手掛けていますので、親善大使が日本中を飛び回ることで、大島紬のストールを多くの方の目にとめていただけます。こうしたコラボレーションの活動を通して、大島紬をより多くの人に知っていただけたら嬉しいです。

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最近では海外にも販路を広げられないかと考えています。

1867年(慶応3年)、フランスのパリで万国博覧会が開催されたのですが、そのとき鹿児島の薩摩藩は、幕府とは別に薩摩琉球国として出展した経緯があります。それから150年後にあたる2017年(平成29年)、大島紬や薩摩焼、薩摩切子といった伝統工芸品から、黒豚や黒牛などの食文化までを紹介する、薩摩ウィークというイベントをパリで開催しようかと考えています。

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海外ブランドのメーカーも日本が誇る技術力に対し興味があるようで、実際にヨーロッパから製造を依頼されている会社も日本にはあります。私たちも、そういったイベントを企てて、積極的に大島紬の技術力の高さをアピールしていくことで、新しい仕事につながるかもしれません。

今はまだ有志が集まって構想を練っている段階ですが、実際にイベントを開催したら、フランスで鹿児島旋風が巻き起こるかもしれません。

 

 

後継者育成が重要課題 現役職人の引退がタイムリミット

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伝統工芸品として指定されている大島紬ですが、なぜ”伝統”と呼ばれるのか。それは普段の生活で使用することがなくなったからです。昔は私たちが作るものは生活必需品だったので、伝統と呼ばれることはありませんでした。

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時折「重田の作っているものは大島紬ではない」と言う人もいますが、今まで通りの着物ばかりを作っていては伝統を守ることはできません。職人があらゆる技術を駆使して、心血を注いで立派なものを作ったとしても、それを欲しいと思う人がいなければ、商売を続けていくことはできません。これからの伝統工芸の行く末を決めるのは世間です。私たち伝統工芸士は、世間にとって必要と思われるものを作っていく必要があります。

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そうして私たちが作ったものを欲しいと思って、製品を購入していただければ産業が潤います。現状では職人が生活していくことさえも厳しい状況で、後継者を育てていく余裕もなければ、生活が厳しいのを分かっていながら伝統工芸を仕事にしたいと思う若者も少ないです。

だからこそ、人に必要とされる製品を作り、産業自体が潤えば、大島紬をやっていきたいという人が増え、伝統を守るということにもつながると思っています。

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現在では職人の年齢層も上がっており、後継者が見つからないまま廃業を選択される人も多いです。廃業すると今まで使用していた職人道具を廃棄してしまうのですが、その道具を私が買い取って、後継者育成の環境作りをしたい。

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私は大島紬の鹿児島地区の会長をしているのですが、会の中では私が一番年下で、他の会員は70代、80代の職人ばかり。その先輩職人が引退してしまえば、技術を教える者がいなくなってしまいます。

だから、後継者育成は今後の長期的な課題であると共に、すぐ目の前に差し迫った課題でもあるのです。今回のサポート費用は、直近では海外進出の足場作りの資金や、大島紬の後継者育成の費用に使わせていただきます。

これからも新しい挑戦を続けながら、基本の部分である大島紬の伝統的な技術を守っていくために、さまざまな提案をし続けていきます。