益子焼の陶芸家として減少する“登り窯”の技術を後世に伝える

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川尻琢也(かわじり・たくや)/陶芸家(益子焼)

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栃木県益子町出身。益子焼の産地としても知られる益子町(ましこまち)で、陶芸家の両親の間に生まれる。大学卒業後、栃木県窯業技術支援センターで陶芸の基礎を学ぶ。その後、沖縄県の読谷山焼・北窯 與那原正守氏に3年間師事。現在は実家へ戻り、「life+tool 川尻製陶所」を運営し、登り窯と益子焼の伝統を守り続けている。

経歴
1983年 益子町、陶芸家の両親の間に生まれる
2004年 東京都私立自由学園 美術研究室 陶芸を専攻
2006年 栃木県窯業技術支援センター入所。1年間ろくろの技術を学ぶ
2007年 沖縄県読谷村 北窯 與那原正守氏に師事。與那原工房で3年間働く
2010年 益子の実家にて「life+tool川尻製陶所」を始める。同年9月 製陶所の脇に小さなお店「せいかつ道具店Womb*」オープン。関東近辺の市・マーケットに出店(益子陶器市/earth garden東京/アースデイ富士ビレッジ/静岡手創り市 など)
2011年 MIRROR BOWLER、Boojilなどアーティストと器をコラボレート
2012、2013年8月 オーガニックレストラン&カフェ シャロム(長野・安曇野)にて器を展示
2013年11月 Tribal Arts(名古屋)にて器を展示


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栃木県益子町は陶芸が盛んな町として知られており、私の家も陶芸家でした。

陶芸家の息子として生まれた私は、幼いころから陶土(陶器の原料となる粘土)を遊び道具にしたり、ろくろをおもちゃにして遊んだりと、土に近い環境で育ちました。

そんな私も、当然のように陶芸の道へ入って、はや7年がたちました。
大学3年生のときに陶芸の道へ進むことを決意して以来、登り窯へのこだわりを貫き、現在に至ります。

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登り窯とは、山の斜面に作ることで炎の余熱を無駄なく利用できるように考慮された、先人たちの知恵と経験によって生み出された伝統の窯です。

昨今では、登り窯はその扱いにくさゆえに、電気窯やガス窯に押され、全国的にもその数は年々減っています。もちろん、電気窯やガス窯はとても便利できれいに焼きあげることができます。
しかし、登り窯でしか出すことができない、独特の風合いもあるのです。

私が益子焼の陶芸家として仕事をする上で、登り窯は大切なこだわりの一つです。
この伝統技法を守るために、登り窯の技術を継承し、より多くの人に魅力を伝えることを目標にして、活動していきたいと考えています。

 

 

おもちゃも自家製、ものづくり好き少年の必然的な将来の道

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私は陶芸家の両親の間に生まれ、幼いころから粘土に触れ合ってきました。

幼稚園にもなれば、両親に教わりながら、遊び半分でろくろを回していたものです。

そんな家庭で育ったせいか、とにかくものづくりが大好きでした。
小学生時代、友達はテレビゲームで遊んでいましたが、家はあまりテレビゲームをやらせない教育方針だったので、仕方なく自分で武器を作ったりして遊んでいましたね(笑)。今思えばそんなところからも、ものづくりの面白さを教えられていました。

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そんなわけで、幼いころから将来は必ずものづくりの仕事がしたいと考えており、両親の背中を見て育った私が、陶芸の道を選択することは、ある意味必然だったのかもしれません。

そして、大学3年生になったとき、陶芸の道へ進むことを決意し、大学の美術研究室で陶芸を専攻しました。

大学を卒業後は、栃木県窯業技術支援センターへ入所し、さらに本格的な陶芸の技術を学びました。
ここは、いわゆる職業訓練学校です。ここで1年間、陶芸の基本的な技術を学びました。ちなみに、当時、両親に陶芸家を目指すことを伝えると、とても喜んでくれましたが、サラリーマンのような固定給の仕事ではないので心配もしていた面もあったと思います。

 

 

親元離れ3年の沖縄修行生活、親方が教えてくれたこと

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栃木県窯業技術支援センターを卒業した後、さらに沖縄県で與那原正守(よなはらまさもり)先生に出会い、3年間陶芸を学びました。

私は昔から旅が好きで、沖縄にはよく足を運んでいました。
そのため、当時は沖縄で仕事をしたいという願望が強かった私は、一度親元を離れて別の陶芸家のもとで修業することも、学ぶことが多いはずだと考え、沖縄で師匠となってくださる人を探していたのです。

沖縄という地は、かの有名な陶芸家である、濱田庄司先生が陶芸を学んだ地でもあり、濱田先生の作風や作品に大きな影響を与えたといわれています。その沖縄という土地に、自分を成長させてくれる何かがあるのでは、と直感的に惹かれたのだと思います。

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そんなときに出会ったのが、読谷山焼・北窯 與那原先生でした。
與那原先生の作風は、沖縄らしい形に捕らわれず、オリジナリティを感じさせるものでした。

一番最初に電話したときは、弟子は間に合っているので難しいとのことでしたが、直接行ってみたところタイミング良く受け入れて貰えることになり、そのときから私の沖縄修行が始まったのです。
そうして始まった3年間の修行では、多くのことを学びました。

陶芸の技術はもちろんのこと、薪割りや粘土の作り方も手作業で、陶芸の仕事の原点を学ぶことができました。こういった知識や技術だけでなく、「何を意識して作るか」「どんな気持ちを込めて作るか」ということや一番自分に足りないところを教えていただいたと感謝していますね。
今でもふと、親方が語って教えてくれたことを思い出し、ありがたいことだなとつくづく思っています。

また、親方の説く「形にとらわれずオリジナルのものを新しく作っていく」という姿勢がすごく勉強になりました。
よく考えると、伝統的なものというのは、その時代の求めるものを柔軟に作ってきたからこそ生き残り、長い歴史を培ったという面もあると思うのです。もちろん、その土地の材料を使ったり、焼き方だったりといった基礎はブレない上でのことではあります。

こういうことが、今の僕のものづくりのスタイルにすごく影響していますね。伝統の基本をベースに、今の暮らしに合う器を作っていきたいと思っています。

親方って、親って字が入っていますけど、本当に「親」みたいに自分のことを考えてくれていて、良くしていただきました。今思うと、当時僕もまだまだ生意気なところもあったので、迷惑もかけたと思いますし、頭が上がりませんね(笑)。

 

 

機械では再現できない、「生きた炎」による独特の風合い

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登り窯とは、複数の窯が階段状に連なった構造をしているため斜面に設置されており、内側に柱などもなく煉瓦や土がアーチ状になっている構造ゆえ、山などの斜面にしか作ることができません。

しかし、この構造だからこそ、高い温度を生み出すことができ、炎のエネルギーを最大限に活かすことができるのです。

私は、この土臭いアナログな窯が大好きです。
機械で制御された窯で焼くよりも、「生きた炎」の中で焼きあがった風合いは、間違いなく違います。まきから発生した灰が付着して溶けることで、独特の風合いが生まれることも、登り窯の特長といえます。

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今思えば、私は幼いころ、すでに登り窯の魅力にとりつかれていたのかもしれません。

両親が焼いた器でご飯を食べていたときや、窯焚き(かまだき)の煙の匂いを嗅いだときから、登り窯への思いは始まっていたのでしょう。

だからこそ、登り窯が無くなってしまえば、器を作る意味が無くなると思えてしまうほど、私にとっては重要な存在なのです。

 

 

震災で倒壊も伝統を守り続けるため、今日も炎と対峙する

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2010年、沖縄修業を終えた私は、地元である栃木県益子町に戻り、実家にて「life+tool 川尻製陶所」を設立しました。それからというもの、毎日試行錯誤をしながら、作陶に励んでいましたが、2011年3月に日本を襲った東日本大震災の影響で、実家の登り窯が倒壊してしまったのです。

先ほどご説明したとおり、登り窯とは、複数の窯が階段状に連なった構造をしているため、山などの斜面にしか作ることができません。そうした特殊な構造ゆえ、巨大地震には耐え切ることができませんでした。

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大地震によって多く作品も壊れてしまいましたが、それ以上に登り窯の倒壊は非常に深刻な問題であり、絶望しました。しかし、そんなとき助けとなってくれたのが、陶芸家として大先輩である父でした。

地震がおきてから間もなく、父と一緒に登り窯を修復する作業を始め、約2ヶ月で登り窯を復活させることができました。
私と父で修復した、この新しい登り窯に火を入れたときは、「これでまた始めていける」と嬉しく思ったものです。煙突から上がる煙は、“復興ののろし”のようでした。

この教訓を活かし、陶芸の技術はもちろんのこと、登り窯の作り方を伝承していくことも、やっていきたいと考えています。