昔懐かしい「桐たんす」、いま一度日本に桐たんす文化を復興させたい!

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酒井裕行(さかい・ひろゆき)/指物師

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1984年、新潟県十日町市生まれ。県立六日町高校を卒業後、早稲田大学理工学部で機械工学に没頭し、自動車メーカーのエンジニアになることを目指す。大学3年の春、ある木工作家の作品との出会いをきっかけに”木”の魅力にひかれ、「指物師」になることを決意。卒業を目前にした4年生の秋に大学を中退し、京都府立福知山高等技術専門校家具工芸科を経て、日本屈指の桐たんす生産地である加茂市の茂野タンス店に入社。代々受け継がれてきた技術を学び、2014年8月独立。三条市で桐たんすの修理・再生を主とする酒井指物を開業する。


image1 (1)指物師とは鉄くぎを使わずに、木と木の組み合わせで家具や調度品を仕立てる職人のことです。

代表的な存在としては、桐たんすが有名です。特に私の地元・新潟県の加茂市で作られる「加茂桐たんす」は、その美しさと技術力の高さから全国各地でその名が知られています。

昔の日本では、嫁入り道具として桐たんすは大変重宝されていました。
しかし、現在ではそうした風習も色あせ、一般家庭で桐たんすを目にする機会も激減してきています。

私は、そうした現状を変えるため、桐たんす文化の復興を目標としています。
桐たんすの魅力を伝えるためにも、どうか皆さんのお力添えを、よろしくお願い申し上げます。

 

 

運命的な出会い経て、一刻も早く職人になるため大学を中退

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ものづくりに興味があったことから早稲田大学理工学部に入学し、当時興味を持っていた自動車メーカーのエンジニアを目指していました。そんな中、当時の私は仲間の影響もあり、伝統工芸品展にしばしば足を運んでいました。

そして大学三年生の春、運命的な出会いを果たしたのです。
たまたま出向いた伝統工芸品展では、とある木工作家の作品がずらりと展示されていたのですが、どれも素晴らしく、一瞬にして心を奪われました。木が持つ本来の色を活かしたカラフルなボタンや、アクセサリーを見て、木の可能性を知りました。

私が持つ木のイメージといえば「茶色」だったので、赤、黄、青などのカラフルな木材を使った木工作品を見て「木ってこんなにも多様だったのか」と気がついたのです。それと同時に、自分の手で簡単に加工できて、さまざまなモノを表現することもできるという、木が持つ性質に魅力を感じました。

このとき初めて「木工作家になりたい!」と思い立ったのです。
私は、すぐにその木工作家へ弟子入りを懇願しましたが「まずは専門の学校へ行って基礎を勉強したほうがいい」と諭され、弟子入りは叶いませんでした。

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しかし、木工作家への気持ちは揺らぐことなく、大学四年生になってからも卒業論文そっちのけで木の勉強を独自に行っていました。この勉強の中で、指物師という仕事と後継者不足の問題を知り、この新潟の地で指物師となることを固く決意しました。

そうと決まれば、学校を辞めて一刻も早く職人の道へ進みたいと思い、両親や先生に相談をしました。
すると、案の定びっくりされましたが、もし本気で職人を目指すならば早いほうがいいと、後押しをしてくれました。

正直なところ、卒業間近だったこともあり、今学校を辞めるべきなのか、心に迷いは生じていました。
しかし、このときの両親や先生の後押しで、踏み出すことができたのだと思います。
感謝してもし切れません。

 

 

新人受け入れの厳しい伝統工芸界、地元で就職先を探す

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大学を辞めてすぐ、京都の福知山高等技術専門校家具工芸科という、指物師になるための職業訓練学校へ通い始めました。

ここでは基本的な知識や技術を、1年間かけて学びます。
この1年間は、とにかく授業が新鮮で、非常に充実した日々を送ることができました。
また、多くの木材に直接触れることで、木の特性や性質を肌で感じることもできましたし、同じ思いを持つ仲間との出会いもあり、多くの刺激をもらいました。

卒業後はさらなる技術向上を目指し、さまざまな指物の産地を巡って修業先を探しましたが、伝統工芸の業界はどこも新人を受け入れるだけの余裕がないところがほとんどでした。
そんな中、地元新潟県の加茂市にある茂野タンス店に出会いました。

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今までは一方的に断られてしまうことがほとんどでしたが、茂野タンス店だけは「採用を検討したいから、考えさせてくれ」と前向きなお返事をいただき、私は「もうここしかない!」と思って、お店に何度もご挨拶にいきました。

そして、4回目の訪問でついに「やってみるか?」という言葉をいただき、無事入社する運びとなりました。
それからの私は毎日の仕事をこなしつつ、多くの技術を学び、周りの先輩方の仕事を観察して技を盗んでいきました。だから、社員全員が私の師匠みたいなものです。

また入社してから感じたことですが、職業訓練学校で学んで良かったと思いました。
基本的な技術や知識は学校で勉強していたので、周りが何をしているのか、次に何をすべきか、など見当をつけることができましたから。学校での経験が、大きな力となったことは間違いありません。

なにより、毎日木と向き合うことへの幸せを、かみしめていました。

 

 

修業を始めて6年、子どもが生まれたのを機に独立を決意

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茂野タンス店で修業を始めて6年、常々自分の工房を持ちたいと考えていた私は、子どもが生まれたことをきっかけに独立を決意しました。子どものためにも、収入を増やしたかったという現実もあります。

そんなわけで2014年8月、新潟県三条市に酒井指物を開業しました。
主に桐たんすの修理・再生を行っております。

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この修理・再生には大きな意味があります。
桐たんすといえば、おばあちゃんやお母さんの嫁入り道具として、古くから愛用されてきました。しかし、時代の流れによって桐たんすは思い出とともに、家庭の隅で眠っていることがほとんどなのです。

私は、そんな桐たんすを修理し、現代の生活様式に合った形に再生して使っていただくことで、当時の思い出を蘇らせることができると考えています。そして、生まれ変わった桐たんすを、親から子へ受け継いでいくことで、いくつもの思いが重なりあいながら、次の世代、またその次の世代へと伝わってほしいと願っています。

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桐たんすとしての再生はもちろんのこと、洋風チェストやベンチソファなど、桐たんすが生まれ変わる可能性は多岐にわたります。桐たんすを修理し再生することが私の仕事ですが、ただ直すだけではなく、その桐たんすに込められた思いを伝える仕事をしたいのです。

これが酒井指物のコンセプトです。
そして、古いものを敬遠して捨てるのではなく、大切にする気持ちを育むことができれば、幸いです。

 

 

“古い”イメージを覆し、伝統工芸をもっと身近な存在へ

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桐たんすに限らず、伝統工芸品といえば「古い」「嗜好品」「高級品」というイメージがあるかと思います。しかし、現在伝統工芸品と呼ばれているものは、一昔前ならば日用品として当たり前に使われていたものばかりです。

私は、その植えつけられたイメージを壊し、もっと身近な存在なのだと、見直してもらえるようにしていきたい。そのためには、ただ昔から受け継がれている形ばかりを創り続けるだけでは不可能です。
今ある伝統工芸品も、時代のニーズに合う形に変化をしてきたからこそ、現在まで残ることができているのだと思います。

だからこそ、昔ながらの桐たんすを創るだけではなく、新しい形を生み出し、可能性を広げることが重要だと考えます。酒井指物はその第一歩です。

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また、桐たんすの優れた機能性はあまり知られていません。調湿機能や密閉性も高く、防虫効果もある上、金属を使用していないため、耐久性も非常に高い。

鉄くぎを使っているタンスは、負荷がかかったときに、金属部分が木をいじめてしまうのです。その点、桐たんすは木くぎなので、木の柔軟性が負荷を逃がしてくれます。

こうした事実を、今の若い人たちに広めることもできれば、伝統工芸をとりまく環境を変えていけるのではないでしょうか。