大好きな西陣織を受け継ぎ、新しい価値を本場京都で発信していきたい

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山岸周子(やまぎし・ちかこ)/西陣爪掻本綴織師

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西陣爪掻本綴織継承者。広島県三原市出身 福岡県太宰府市在住。京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)日本画コース卒業後、伝統的工芸品・西陣織の「爪掻本綴織」織元に就職。伝統工芸士を目指すも三叉神経痛を発症し、織れなくなり2年間引きこもり・療養生活を送る中、熊本・阿蘇の「白川水源開運館」代表とのご縁があり37歳で転職。10年以上天然石と向き合い続け、様々な出会いから内に秘めた西陣織への思いを再燃させ、現場復帰を決意。2016春までに京都へ移住予定。
■ 三原市美術展・工芸部門奨励賞、広島県美術展・入選
■ 第49回新匠工芸展京都展入選
■ 山城新吾監督・主演映画「本日またまた晴天なり」の機織り技術指導、エキストラ出演


image1 (1)京都の芸術短大で日本画を勉強し、着物が大好きだったこともあり、西陣織の織元(おりもと)に就職しました。

3年間勤めた後、独立して作家になりたいと考え、「日本染織學園」「川島テキスタイルスクール」に通い、デザイン・染色・機ごしらえを学びました。それから、師匠との出会い、病気との闘いなど、紆余曲折を経て現在に至ります。

現在は九州に拠点を置いているため、私の織りを西陣織と名乗ることはできませんが、2015年末から2016年春までに京都へ戻り、仕事を再開する予定です。ことしで50才の私ですら「若手」と言われる業界の現状を知り、作品制作に専念するだけではなく、私が職人として得てきた技術を伝えていくということも視野に入れ、世界に向けての作品制作・活動をしていきたいと考えています。

なかでも、「爪掻き本綴れ織(つめがきほんつづれおり)」と呼ばれる、西陣織の中で最も歴史ある技法を、もっと多くの人に知ってもらえたらと思っています。

 

 

22歳で一念発起!当時から続く、情熱と悔しさが原動力

▲西陣織会館での実演風景
▲西陣織会館での実演風景

私は芸術大学を卒業した後、西陣織の織元に就職をして、3年間職人として鍛えていただきました。
そこで勉強していくうちに、「自分でやっていきたい!」「自分でデザインした帯を織りたい!」という思いが強くなり、織屋を辞めることにしたのです。

その思いを早速会社に相談したら社長に呼ばれまして、考え直せと説得されたのですが、頑固な私は考えを改めませんでした。

その時の社長さんの言葉は、「あんたに何ができるんや!」でした(苦笑)。
当時の私はその言葉にカチーン!!と来てしまって……。

▲日本染織學園修了展に出品した名古屋帯、写真右:川島テキスタイルスクール時代に制作した作品
▲日本染織學園修了展に出品した名古屋帯、写真右:川島テキスタイルスクール時代に制作した作品

今思えば、京都になんのツテも人脈も無く、織屋に勤めてたかだか3年目の22歳の小娘が発する言葉ではないのです。私もあのときはよく言ったなあと思います(笑)。

社長さんも、私のことを考えてくれていたからこその言葉だったのだと思いますが、その一言で私は「やったるわい!」と奮起することができました。

今日までの私の原動力は、この出来事が大きいと思います。
だからこそ、当時の社長さんにはとても感謝をしています。

 

 

展示会で出会った”面白い帯”、それが運命の出会い

▲映画「本日またまた休診なり」で織道具・糸扱い技術指導として担当。右は女優・松坂慶子さん、左から2人目は女優の故・丹阿弥谷津子さん。撮影場所:松竹京都撮影所
▲映画「本日またまた休診なり」で織道具・糸扱い技術指導として担当。右は女優・松坂慶子さん、左から2人目は女優の故・丹阿弥谷津子さん。撮影場所:松竹京都撮影所

私は川島テキスタイルスクールを修了してから、運命的な出会いをしました。

西陣織会館へふと行ってみたときに、爪掻き本綴れ織の展示会・品評会が開かれていたのです。
なかを見学していると、私好みの渦巻がいっぱい織ってあるような、非常に面白い帯が展示してありました。

私が夢中になってその帯を見ていると、「こういうデザイン好きなの?」と声をかけてくださる方がいました。
その人こそ、私の師匠である、小玉紫泉先生だったのです。

▲友人の結婚祝いに織った爪掻き本綴れ織財布
▲友人の結婚祝いに織った爪掻き本綴れ織財布

当時の先生は、伝統工芸士として認定される前ということもあり、伝統的な模様というよりは、アグレッシブで面白い模様や技法にチャレンジされていたのです。
私は「はい!!もう大好きですこんな変わった帯!!」と言いました。
すると先生は、「こういうのが好きなら、うちへいらっしゃい。今後作家になるにしても、人の柄を織ることも勉強になるわよ」と言ってくださいました。

そこからは、とんとん拍子で話が進み、私の経歴をお話して、西陣織伝統工芸士である小玉紫泉先生の下で師事させていただける運びとなりました。実は私の旧姓は「児玉」で「小玉」という先生のお名前に、何か運命的なものを感じていました。

あのとき、西陣織会館で先生と出会うことができて、本当に良かったと思っています。
3年間の修行の間も、とても良くしてくださり、西陣織会館で先生の名代(みょうだい)で実演をできるまでに育てていただきました。

 

 

病気療養からの復活、人生に無駄な時間はなかった

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先生の下を卒業した後は、西陣織会館での実演も、そのまま先生から私が引き継いで、自分の名を名乗って行うことができました。

しかし、そんな時に三叉神経痛(さんさしんけいつう)という顔面の神経が痛む病気にかかってしまいました。
表情を変えるだけで激痛が走るようになり、しゃべったり、食べたりすることも困難でした。
そのため、当時は固形物が食べられなくて、実演のお昼休みや夜は、行きつけの薬膳ラーメンのスープだけを大将にお願いして提供してもらっていました(笑)。

その後もしばらくは、薬を飲んでだましだまし実演はできていたのですが、あるとき薬が効かなくなってしまいました。機の上で昏睡状態となってしまい、お客さんから「手織りの実演者が寝とるぞー!」って事務所に報告があり、助けていただいたこともありました(笑)。

そんなこともあり、実演の仕事も続けていくことが困難となってしまい、爪掻き本綴れ織の伝統工芸士への道を志半ばで一時断念し、病気退職をすることになりました。

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その後、病気療養中に縁があって、九州の天然石販売会社に就職しました。

熊本へ行った当時は、一度京都へ伝統工芸士の試験を受けに帰ろうと考えていましたので、5月に連休を申し出たら当然のごとく却下され、当時の会社代表に説得されました。
それまで青春のすべてを注ぎ込み頑張ってきた目標の「伝統工芸士」をいったんあきらめるには、さすがに気持ちの整理に2ヶ月ほどかかりました。

その後は、「今、目の前に与えられた仕事を頑張ろう!」と気持ちを切り替えて、天然石の世界にお世話になりました。

そこから約10年が経ち、現在では病気も完治しました。心身共に立ち直ることができ、西陣織の世界へ帰ろうと考え始めることができました。

そんななか、2012年に福岡県太宰府市で、伊勢神宮に昔から伝わる文字のひとつである、神代文字の展覧会が行われていたのです。私は、その展覧会に不思議な魅力を感じ、すぐ見学に行きました。
そこで初めて神代文字を見た私は、一瞬で心を奪われて「これを織りたい!」と思いました。

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私が爪掻き本綴れ織へ復帰するにあたっての最終目標を、ここで見つけることができたのです。

爪掻き本綴れ織で神代文字を織り、世界中へ発信していきたい、と決心した瞬間です。

もし私が九州に来なかったら、もし私が病気にならなかったら、こうした出会いも無かったのかもしれません。私が西陣織の世界から横道へそれてしまったと思っていたこれまでの時間は、この出会いのためだったのかと思いました。

人生に無駄なんてないのだと、思い知りました。

 

 

かつての仲間との再会を経て、職人として再び京都へ

▲撮影場所:京都・川島テキスタイルスクール
▲撮影場所:京都・川島テキスタイルスクール

2年前にはもうひとつ、運命的な出会いがありました。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて、川島テキスタイルスクールの仲間と再会することができたのです。

その仲間に、「ずっと探してたんやで!」「ねぇさん織ってよ!」と言われたことも、大きな転機でした。

そのときは、私も丁度本格的に復帰を考え始めていた頃で、この出来事をきっかけに、京都へ戻る準備は加速していきました。といっても、ブランクもあるので、現在は京都の母校(川島テキスタイルスクール)へ月に何度か出向いて、技術と感覚を取り戻しているところです。

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仲間に声をかけてもらってから、既に2年間も待たせているので、早く復帰したいのです。

何より「織ってよ」と言ってくれた仲間の言葉に応えたい。

京都生活から10年以上も離れ、当時の力が出せるかも分からないのに、友人としてではなく、一人の職人として信頼し仕事を依頼してくれたことが、この上なく嬉しかったのです。

京都へ戻ることも、家族は全面的に応援してくれていて、いろいろな方々に支えられて今があるのだと、実感しています。